
オーギュ・ハヴスソル: 魔法使い。人間と精霊のハーフブラッドで、身体的にも精神的にも性別はない。
魔法生物と通じる能力を持ち、風属性/天候操作の魔法に長けている。動物に変身したときの姿は不死鳥。
サーシャ・アストリア・レストレンジ: 魔法使い。人間と精霊のハーフブラッドで、身体的にも精神的にも性別はない。
オーギュとはパートナー関係。
エリオット・ヘーゼル・カレン:Shárú Ar Mortにいたときに同室だった魔法使い。
ゲイル・スカイラー:Shárú Ar Mortの闇の魔法使いでメリク(オーギュ)の師。ローレルのきょうだい。
ローレル・スカイラー:Shárú Ar Mortの闇の魔法使いでエリオット(ヘーゼル)の師。ゲイルのきょうだい。
ナタリア:Shárú Ar Mortの闇の魔法使い。ハーフヴァンパイア。
リーシャ:Shárú Ar Mortの闇の魔法使い。人狼。
ロイス・ベラクア:Shárú Ar Mortの闇の魔法使い。癒師。
(詳しいキャラクター設定は、キャラ設定のページにあります。)
『醒めない悪夢』
BGM: Ryuichi Sakamoto / solari (Fennesz remix)
これは、フリートフェザーの家から発見された、オーギュ・フリートフェザーが書いたと見られる記録だ。
魔法では修復不可能なほど朽ちたページが多くあるため、きわめて不完全な形ではあるが、当時のShárú Ar Mortのことを知る上で重要な資料である。
——N. Braithwaite
それがいったい何歳の頃だったのか、今もわからないままなのだが、あれは私がまだ小さかった頃のことだ。
私はShárú Ar Mort〈シャルアモール〉に捕らえられ、記憶を消し去られ、メリクという名を与えられていた。
数年間をあの悪夢のような場所で過ごしたあと、14歳で逃亡に成功したのだが、このときの記憶に私は長年苦しめられることになった。
パートナーのサーシャに支えられ、この苦しみを乗り越えて生きてこられたのだけれど、今なお傷が癒えたわけではない。
当時のことは、あれから長年経った今でも、ことあるごとに鮮烈な記憶として蘇ってくる。
私はこの血塗られた記憶をどうにか消化したいと思い、Shárú Ar Mortで過ごした日々を書き記すことにした。
BGM: Jonny Greenwood / Henry Plain View
私は壁も床も天井もすべてが漆黒の石造りの部屋で目を覚ました。
それより前のことは何も思い出せない。
記憶が混乱していて順番がはっきりしないのだが、おそらくこれが一番最初の記憶ではないかと思う。
私は冷たい石のベッドに横たわっていた。
自分がなぜここにいるのか、何があったのか、何ひとつ思い出せない。
起き上がろうとしても、私自身も黒い石造りになってしまったかのように全く動くことができなかった。
指一本動かせず、皮膚の感触すらなくなっている。
真っ黒い天井はこちらに押し迫るように重苦しく、私は今にも押し潰されてしまうのではないかと思った。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
少しずつ身体の感覚が戻ってくると、後頭部に激しい痛みを覚えた。
すぐ近くから呻くような声が聞こえていたが、しばらくの間はそれが自分のものだということにも気づかなかった。
ふいに、部屋に悪臭が漂っていることに気がついた。
それが何なのかはわからなかったが、
次第に感覚が戻ってくると、自分の下半身が排泄物に塗れていることに気づいた。
気持ち悪い。
匂いもひどく、とても不快だった。
しばらくして身を起こせるようになると、排泄物を取り去ろうと部屋を見回して杖を探したが、そのようなものはこの部屋のどこにも見当たらなかった。
私は突然、臀部に違和感を覚えた。黒い甲虫の群れが這い出してくるような感触が私を襲う。
ふいに巨大なナメクジのようなものが視界を遮り、そのぬめぬめとした大きな塊が私の頭に覆いかぶさってきた。
すると、魂を吸い取る幽鬼を思わせるようなおぞましい叫び声が頭の中に響き渡った。
急に頭がしびれ、意識が遠のいていく。
私はふたたび石造りのベッドに倒れ込み、頭を強く打った。
鈍い痛み……。
BGM: Jonny Greenwood / Stranded the line
私は当時一人の師の弟子として扱われていた。
師の名前はゲイル・スカイラー。私は彼に魔法や武器の扱いを教え込まれていた。
師からは様々な訓練を受けることになるのだが、特に苦痛に感じていたのは戦闘の訓練だった。
師が鞭を、私が剣を持ち、武器だけを使って師と決闘をするというものや、魔法を使った決闘、それに弟子同士の決闘も。
武器や魔法で相手を傷つけなければならない。さもなければ傷つけられるのは私だ。
戦闘後には魔法で元通りに戻されるとはいえ、腕や脚を切り落とされたりするのはいつものことだ。
鞭で打たれた皮膚が腫れ上がり血が滲んでも、そのくらいでは何も治療してはもらえない。
何より最もの苦痛は、犬、猫やねずみなどの小動物の殺害を命じられることだった。
従わなければ服従の呪文で無理やり手足を動かされ、どちらにしろ動物たちは殺されてしまうのだ。
さらに魔法の訓練でも、死の呪いや拷問の呪文の訓練をさせられていた。
小動物を拷問にかけたり、呪文で殺すことを命じられていたのだ。
これらの魔法は私には最後まで修得することはできなかった。
よく知られている通り、相手を殺す、拷問にかける、そのことに明確な意思を込めなければ、こういった魔法が発動することはないのだ。
そして、それがどんなことであろうと、命令されたことをうまくやり遂げられなければ罰を受けることとなった。
そういった禁術以外でも、私が特に苦手だった魔法薬の調合では毎回罰を受けていた。
完全に調合に失敗したものは魔法効果はないのだと言われ、醜く濁った薬液を飲むことを強要された。
魔法効果がないとはいえ、調合に失敗した薬剤は、頭痛、腹痛、吐き気、めまい、発疹など様々な心身の苦痛を引き起こすのだった。
私は当時、第五収容棟の二人部屋に寝泊まりしていた。
Shárú Ar Mortの建物はどこへ行っても黒い石造りで、ここもやはりそうだった。
同室のエリオットは、私の師ゲイルのきょうだいであるローレルの弟子だった。
私たちは同じ部屋にいるだけで、ほとんど言葉を交わすことはなかった。
エリオットもやはり、しばしば鞭で打たれた痕を残して部屋に戻ってきていた。
エリオットは、私が連れて来られるよりもしばらく前からここにいたらしい。
私が連れて来られて間もない頃、少し話をしたことがある。
エリオットによると、私たちはこの施設の中の他の人たちに比べればまだ待遇がいい方なのだという。
彼が言うには、一人ひとつベッドが与えられ、三食きっちりと食事が与えられているのは私たちだけらしい。
他の棟には非魔法族の人たちが収容されていて、その人達はまともに食事も与えられず、過重な労働をさせられているのだと。
なぜそんなことを知っているのかと訊くと、エリオットは壁を抜ける能力を持っていて、別の棟を見たことがあるからだという。
私たちは記憶を奪われていて、ここに来る前どこにいたのか、何をしていたのか、何ひとつ思い出すことはできなかった。
ただ、私たちは〝魔法〟という力を使うことができ、それの訓練を受けているのだ。
毎日食事は与えられてはいたが、それはお世辞にも美味しいなどと言えるものではなく、むしろ苦痛を伴うものだった。
それというのも、ここで食べられるものといえば、巨大昆虫の卵や大ナメクジの肉といった、人間が食べる物とは思えないようなものばかりだったのだ。
そして、ここでは入浴することも許されておらず、私たちは毎夜、魔法を使って身体の汚れを取り除かなければならなかった。
ここにはトイレすらなく、使えるのは部屋の隅にある壺だけで、毎回それで用を足すほかないのだった。
部屋には私の他にはエリオットしかいないとはいえ、これに慣れることはできず毎回苦痛に感じていた。
ゲイルやローレル、他の闇の魔法使いたちもいつ部屋にやってくるかわからない。
終わればすぐに魔法で取り去ってしまうとはいえ、人前での排泄を強いられていたのだ。
時には師が遠出をしていて本部にいないという日もあった。
そういう日は訓練はなく、一日中収容棟の部屋で待機することになっていた。
訓練が休みなのは良かったけれど、部屋でできることは何もない。日に三度部屋の扉が開けられて食事が運び込まれること以外は。
それよりも、この場所で過ごす最もの苦痛は、収容棟の中を漆黒の外套を纏った骸骨のような死神とも幽霊ともつかない姿をした魔物が常に見回りをしていることだった。
彼らが近くに来ると、私の中にあるあらゆるものが吸い取られていくかのような感覚に襲われる。
そして私の中では恐怖と絶望が膨れ上がり、心には苦悩と苦痛だけが満ちていくのだった。
狭く暗い部屋で過ごす時間は、一秒一秒がひとりの人の一生のように長く感じられる。
それは重く暗い絶望の檻の中に永遠に閉じ込められているかのようだった。
ここでは、師の命令は絶対だった。
逆らおうものなら拷問の呪文をかけられ、いっそ殺してほしいと懇願するしかできないような地獄の苦しみにもがくことになる。
エリオットは私より拷問にかけられることが多いようだった。
お互い何があったかを話すことはなかったが、その虚ろな目を見れば拷問を受けた後だということはすぐにわかった。
いつからか、私たちは何も言わず傷ついた同室者に癒しの魔法をかけ合うようになっていた。
命令に従わなければ拷問を受ける。では従っていれば何もないのかというと、そうではなかった。
ゲイルはときどき急に激昂して、私めがけて火球を飛ばし、私の肌を焦がしたりした。
彼がどういうときにそうなるのか私にはわからなかったので、私はいつもそれに怯えていなければならなかった。
訓練所付近では他にも多くの闇の魔法使いを見かけた。
弟子と思われる人もいたが、私語は禁止されていたため、彼らと関わるのは決闘の訓練のときだけだった。
頭に無数の蛇が蠢いていたり、羽や鱗があったりするような、人間のようでありながら人間とも動物ともつかない者を見ることもあった。
ナタリアという魔法使いが弟子と思われる人を拷問したり、刃物で肩を刺したりしているのを時々見かけた。
あるとき、ナタリアが弟子らしき人の目玉を刃物でくり抜いたのを見た。
全身の血が煮えたぎり逆流するような感覚を覚え、私は思わず目を閉じた。
おそるおそる目を開けると、ナタリアの手の上で血に塗れた眼球がくるくると回っている。
そしてそれを宙に飛ばしたかと思うと、眼球は元あった場所に何事もなかったかのように収まった。
それはおそらく一瞬の間の出来事だったはずだが、私にはとても長い時間に感じられた。
私が硬直していると、ゲイルの杖先から硬い石が勢いよく飛んできて私の鳩尾を強く打ち、私は痛みに呻いた。
「メリク! 誰が止まれと言った? 歩け。そっちの部屋だ。」
こんなことはShárú Ar Mortでは珍しいことではなかった。目の前で人が殺されるのを見たのさえ一度や二度ではない。
ナタリアは吸血鬼だった。いや、正確にはハーフヴァンパイアだったのだが、当時はそう思っていた。
彼が《食事》をするときは、生きたままの身体に牙を立て血を吸い、恐怖に怯える表情を見ては残忍な笑みを浮かべていた。
血を吸った後は、一振りで首を切り落とすこともあれば、多量な出血で息絶えるまで嬲り続けるときもあった。
Shárú Ar Mortからの逃亡を果たした後も、くり抜かれる眼球や、刃物で少しずつ皮膚を剥がし取られる様子など、この場所で見たありとあらゆるおぞましい光景、幾多の痛苦がことあるごとにありありと思い出され、私はそれに長年苦しめられることになった。
BGM: Jonny Greenwood / HW/Hope of New Fields
私たちはこの建物の中から出ることは一切許されていなかった。
だから私は、ここを出るまでは、太陽も、月も、森も、海も、昼と夜があることさえ思い出すことができなかった。
この悪夢の日々の中で、唯一の楽しみといえば、たまにリーシャという魔法使いがお菓子をくれることだった。
今思えば、それは普通のお菓子だったのかもしれない。
けれども、私たちが日々食べられるものといえば、一番ましなものでも毒抜きをしたドクトカゲのスープや、青いサソリのフライといった具合で、ほとんどは得体の知れないものばかりだった。
いつもそういった食事を摂らされていた私にとっては、彼のお菓子はとびきりのごちそうだったのだ。
リーシャはShárú Ar Mortの中ではスカイラーきょうだいと同じ地位にあるらしかったが、どういうわけかリーシャが私たちに命令したりするようなことは一度もなかった。
なぜリーシャがそのようにしてくれていたのか、それはエリオットにも私にも全く見当がつかなかった。
ここに閉じ込められていたとき、私はよく体調を崩していた。
体調が悪いからといって、癒師に診てもらえるわけではなく、熱にうなされ嘔吐しながらでもいつも通りに武器や魔法の訓練を受けなければならなかった。
気を失って倒れたときなどは、ロイス・ベラクアという癒師が私を診察した。
彼はいつも淡々と質問をして私を診るだけだったが、ひどい扱いをされることもなかった。
それなのに、彼の診察を受けるときはなぜかいつも恐ろしくなり、診察の後はひどく疲れてしまうのだった。
BGM: Jonny Greenwood / Stranded the line
ここでは毎日悪夢を見た。どういうわけか夢の中でも私はいつもShárú Ar Mortの中にいた。
夢の中でもやはり拷問を受けたり鞭で打たれたりと、現実と同じような仕打ちを受けていた。
現実と違ったのは、夢の中の私はゲイルや他の闇の魔法使いたちに抵抗したり戦ったりしていたことだ。
彼らは私より圧倒的に強く、夢の中でさえ勝てることはなかった。
最後にはいつも捻じ伏せられ、刃や呪いを受けて自らの悲鳴とともに目を覚ますのだ。
しかし、日が経つにつれて夢の内容に少しずつ変化が現れていった。
夢の中で私が使う魔法は夢を見るごとに上達していた。
それは、現実では使ったことがない魔法であったりもした。
長い間気づくことはなかったが、夢の中で上達した魔法は、驚いたことに現実でも使うことができた。
さらに、夢の中で訪れた、現実には行ったことがないShárú Ar Mort内の場所は、現実にもその通りに存在する場所であった。
なぜ夢が現実とリンクしていたのか、今でも私にはわからない。
だが、これはのちにShárú Ar Mortを脱出するために非常に役に立った。
最も重要だったのは、夢の中で閉心術を身につけたことだった。
閉心術——それは心に入り込み読み取る魔法、開心術を防ぐためのものだ。
考えを読み取られてしまえば、脱出は必ず失敗に終わる。これがなければここからの脱出を試みることすらしなかっただろう。
不死鳥への変身能力も夢の中で修得した。めくらまし術や武装解除の呪文など数多くの魔法を覚えていった。
同室のエリオットも連れて脱出すればよかったのではないかと、今でも悔やまれるときときがある。
しかし、夢の中でエリオットを連れて行った場合には必ず脱出に失敗していたので、もしそうしていたら今でもShárú Ar Mortから抜け出すことができていなかったかもしれない。
第五収容棟の一角に、魔法動物が閉じ込められている区域があった。脱出のときに彼らを逃したが、うまく逃げられたかどうかは今もわからない。後に再会した数匹を除いて。
長い間忘れていたが、この手記を書いていて思い出したことがある。
あるとき、ゲイルがナタリアに話していたことが部屋の外に聞こえてきた。
「ナタリア、拷問の呪文を使うのはほどほどにしておけ。使いすぎれば能力自体を破壊しかねない。拷問の呪文は飽くまでも対象を支配するために使うのだ。」
確かにその通り、私は心に深い傷を負うことになったものの、発狂して魔法の力を失うことはなかった。
それでも——なぜだろう、私は恐怖と絶望に支配され切りはしなかった。どんなに恐怖と絶望に飲まれようとも私はあの牢獄から抜け出そうとすることをやめなかった。
あれはいったい何だったのだろう、この場所で見た悪夢の中ではいつも、一筋の青白い光を追いかけていた。
淡い光は空をはばたくように流れ飛び、まるで私を導いているかのようだった。
Shárú Ar Mortからの脱出に成功したとき、これで煉獄の炎に灼かれるような日々に別れを告げ、長く待ちわびた平穏をついに手にしたのだと思っていた。
だが、私の悪夢はこれで終わりではなかった。
::: Ending Song: 螢 / カゼドケイ :::